甘粕大尉

★ あらすじ

関東大震災後の混乱に対し、戒厳令が公布された。警視庁すら地震で崩れ落ちた状況で、憲兵隊は治安の最前線に立って奔走していた。その際、麹町分隊の分隊長に就いたのが甘粕正彦だった。朝鮮人による暴動が起きた(画策されている)との流言飛語が飛び交っている状況で、みなが殺気立っている状況だった。そんな中、甘粕によって麹町分隊に連行されてきたのが“無政府主義者の巨頭”と言われていた大杉栄とその妻・伊藤野枝、そして甥の三人だ。多くの憲兵たちがその光景を見ていた。そして、事件は起きた。大杉らがその場所で殺害され、遺体は井戸に投げ込まれたのだ。
甘粕政彦は大杉ら三名を殺害した罪で軍法会議にかけられることとなる。彼が独断で行った犯行とされ、早々に懲役十年の判決を受ける。背後関係などには全く触れられない審議だった。だが、彼を知るものはそんな非道なことをできる男ではないと後に語っている。さらには、判決前に甘粕に対して「懲役十年の判決が出るが、実際は二・三年で釈放されるだろう」と“予言”した者もいた。そんなシナリオが出来上がっていたという疑いもあるのだ。甘粕正彦は全てを自分ひとりで抱えて罪をかぶったのだろうか。

彼が獄中にいる間、士官学校の同期生たちはじめ、先輩たちも支援を惜しまなかった。かの東條英機もその一人だ。そして“予言”の通り、三年で釈放となる。しばらくは地方の温泉地などに身を隠すようにしていた甘粕は、のち、妻を伴って渡仏した。何か明確な目的があった訳ではない。また、渡仏後の生活は、日本人が全くいない郊外の街に暮らすなど、隠れ住んでいたと言うほかない状態だった。確たる証拠は掴めなかったが、関係者の言から察するに、大杉事件を画策した陸軍が秘密裏に生活費を支給していたようだ。言葉も通じぬ異国で逃亡者のように隠れ住む甘粕。彼はだんだんに自暴自棄となっていく。競馬にのめり込んで金を使い果たしたとの話もあり、(軍部から金をもらっていたのに?)生活は困窮を極めていたようだ。そんな中、子供が生まれるのだが、妻子を顧みる余裕もなくなっていたようだ。

そんなどん底の状態を経験したフランス時代が終わり、帰国を果たす。だが、半年後にすぐに彼は中国(満州)へと渡ることになる。そこでは新たな甘粕正彦が“誕生”する。彼の地では前年に張作霖爆殺事件が起き、関東軍の“暴走”が始まり、柳条湖事件から満州事変へと拡大していく時だった。

★ 基本データ&目次

作者角田房子
発行元筑摩書房(ちくま文庫)
発行年2005
副題増補改訂
ISBN9784480420398
  • 一 大杉栄殺害事件
  • 二 軍法会議
  • 三 獄中
  • 四 出獄
  • 五 フランス時代
  • 六 満州へ渡る
  • 七 満州建国
  • 八 満映理事長となる
  • 九 敗戦
  • 旧版あとがき
  • 「甘粕大尉」と王希天事件

本書の原本は1975年に中央公論社から発刊され、1979年に中公文庫化、のち、2005年にちくま文庫に再録された。

★ 感想

甘粕正彦のイメージというと、映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じていた姿が強い印象を残している。かの関東軍をも影で操り、満州国を牛耳るフィクサーというところだろうか。しかも、大杉事件(関東大震災後の混乱の中、無政府主義者の大杉栄が妻と甥と共に殺害された事件。憲兵隊長だった甘粕が犯人として十年の実刑となった)の張本人という過去を持つ男。ピカレスク・ロマンの主人公としてはこれ以上にない存在。そんな感じだ。

だが、本書を読んでそのイメージは大きく変わった。確かに「大杉事件に“関連”している」「満州国で大きな権力を持っていた」のは事実だが、それらの背景や“真相”は知らなかったことばかり。著者が多くの関係者にインタビューをして、“真実”を探り出そうとした努力に感服します。甘粕本人の兄弟だったり、大杉事件当日に甘粕の部下だった元憲兵だったりと、何人の人が登場しただろうか。
誰しも色々な顔を持っているだろうけど、甘粕大尉に対する評価が人によってまさに180度異なっているのも面白い。情け深くて人のことを親身に考える人だと評する人もいれば、大言壮語のはったり屋的に見ていた人もいるし、もちろん、幼い子供までも手にかけた非情・無情の犯罪者とレッテルを貼る人もいる。さらには、天皇崇拝の極致を行く軍人気質の人かと思えば、満州映画協会での大リストラによる建て直しを成功させたビジネスマン的な資質、そして、満州の文化レベル向上に邁進した情熱の人でもある。人はこんなに多面的な存在になれるものだろうか。そんな希有な存在だったからこそ、こうやって歴史に名を残す人となったのだろう。

著者は、そんな甘粕に対して、当時はみな似たような思想・信条を持っていた、と語る。甘粕一人がスーパーマンだった訳でも、異質な存在だった訳でもなく、その時代の象徴であり、彼を知ることを通して、その時代のコモンセンスを理解しようとしたようだ。「五族協和(日本人、中国人、朝鮮人らが共に手を取り合い繁栄する世界)」を理想に掲げつつ、一方では宴会の席で日本人には白米、朝鮮人には麦飯を出して平然としているような人種差別観は、当時の人々の“普通の感覚”だったとする。なるほどねぇ。
とても“魅力的”な人物なだけに、あまりのめり込まないように、冷静な評価が必要だ、と言うことだろうか。とは言え、やっぱり惹かれる存在だ、甘粕大尉。

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