現代語訳吾妻鏡 7 頼家と実朝

★あらすじ

正治三年(建仁元年) 1201年
2/3 旧平家方の豪族(城長茂)が京都で後鳥羽院の御所を取り囲む事件を起こす。「関東を追討せよ」との宣旨を出すように要求した。だが、失敗して逃亡した。
3/4 城長茂らが捕らえられ、斬首・晒し首となる。だが、その後も一族郎党が越後で城を構えて謀反を図り、幕府側は多くの犠牲者を出しつつ、これを制圧した。
9/7 頼家が後鳥羽院に頼んで派遣してもらった蹴鞠の名手紀内所行景が鎌倉に到着する。こののち、頼家は政務を疎かにし、蹴鞠に興じるようになる。
9/22 北条泰時が、「台風被害が甚大だというのに蹴鞠ばかりやっているのはよろしくない」旨を中野能成に“密かに”話をする。
10/2 北条泰時の「諫言」が頼家の耳に入って不興を買っていると泰時に伝えられる。泰時は以前から予定していたとして、伊豆の領地に戻った。
10/6 伊豆の領地が昨年からの天候不順に加え、先日の台風で荒れ果て、領民が餓死寸前であることを知った泰時は、貸し付けていた出挙米(貸し付け用種籾)の証文を彼らの前で焼き捨て、さらには食事を供した上に米を支給した。領民たちは涙を流して喜び、北条氏の繁栄を願った。
12/3 後鳥羽院の不興を買って領国三国を没収されていた佐々木経高が赦しを得て、頼家から一国を返された。経高は喜んで京都に帰っていったものの、北条泰時は「頼朝への勲功を考えると、なぜ三国を返さないのか」と頼家に対する不満を、父の北条義時に話した。

建仁二年 1202年
6/25 蹴鞠のあとの酒宴の場で、平智康が北条時連(のちの北条時房)に対して、「『連』の字は卑しいものの使うものだから、改名した方がいい」と“助言”する。時連も納得して改名するように決める。
6/26 北条政子が昨日の平智康の話を聞きつけ、「平智康は思い上がっている」と怒りをあらわにした。
8/2 京都から使者が来て、先月22日に頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に補任されたと知らせてきた。

建仁三年 1203年
1/2 一幡が鶴岡八幡宮を参拝する。その際、「今年、関東に事件が起きる。一幡(頼家の長男)が家督を継いではならない」といった旨の八幡大菩薩の神託を巫女が唱える。
(そのリアクションに関しては何も記されていない。頼家はこの日も蹴鞠をした、とのみ書かれている。)
2/4 頼家の弟の千幡(のちの実朝)が鶴岡八幡宮を参拝する。北条義時が随行する。
(こちらは特に事件もなく無事に済んでいる。)
5/19 頼朝の弟である阿野全成が、謀反の風聞のために捕らえられる。
5/25 阿野全成が常陸国に配流となる。
6/23 頼家の命を受けて、八田知家が阿野全成を誅殺する。
7/20 頼家が病気となる。
7/25 京都で、阿野全成の息子の頼全が誅殺される。
8/27 頼家が危篤状態となっていたので、千幡に関西三十八カ国の地頭職を、一幡に関東に十八カ国の地頭職と惣守護式を譲ることとなった。だが、これに不満を持った一幡の外祖父である比企能員は千幡やその外戚を滅ぼそうと考える。
9/2 「仏像供養をするから」とだまし、北条時政は比企能員を邸宅に誘い入れる。能員は周囲の反対をよそに、出掛けていく。そして誅殺されてしまう。それを知った比企一族は一幡の御所に立てこもるが、時政の命で差し向けられた軍勢に攻め立てられ、館に火を放ち敗れ去る。一幡もそこで死んでしまう。
9/15 阿波局が政子に、「千幡は時政邸にいるが、(時政の妻の)牧の方は信頼できないから千幡を引き取るべき」と訴える。政子は同意し、北条義時、三浦義村らに命じて千幡を迎え取らせた。時政は狼狽するも、千幡は政子の下に置かれることとなる。
同日、京都から使者が来て、実朝(千幡)が従五位下に叙され、征夷大将軍に任じられたとの宣旨が届いた。
9/29 北条時政、中原広元の決定により、頼家が鎌倉から伊豆修善寺に移る。
10/9 実朝の政所始の儀式が行われ、北条時政、中原広元が取り仕切る。儀式の次第や故実は執権が全て授けたとある。
(「執権」と呼ばれているのが誰か明確にしていないが、時政のことか?)
10/27 武蔵国の諸家に対して、「時政に対して二心のなきよう」との命があった。和田義盛が奉行した。

建仁四年(元久元年) 1204年
3/9 伊賀国・伊勢国で平家の者がそれぞれ蜂起し、守護人を追い出し、両国を占拠した。
3/10 在京の平賀朝雅に謀反人を追討するよう命じるために京都へ飛脚を送る。
5/6 平賀朝雅から、「先月29日に平氏の謀反を平定した」旨、連絡が鎌倉に届く。こののち、平賀朝雅は伊勢国守護職に補任される。元の守護だった山内経俊は、平氏蜂起の際に逃亡したため、守護職を解かれてしまった。
7/14 実朝が発病し、寝込む。
7/19 頼家が修善寺で死亡した旨の連絡が鎌倉に届く。
12/10 実朝の正室となる藤原信清の娘が京都から鎌倉に到着する。

元久二年 1205年
6/21 牧の方(北条時政の後妻)の讒言により、畠山重忠を討つことが決まる。北条義時は反対するも、結局は同意する。
6/22 畠山掃討軍が鎌倉を発つ。まず、畠山重保が由比ヶ浜で討たれる。のち、武蔵国の二俣河で追討軍と畠山重忠が決戦に臨むも、畠山勢が百数十人に対して追討側は数千騎。その日のうちに決着が付き、畠山重忠は誅殺される。
7/8 実朝が幼いので、政子が取り仕切り、畠山重忠の旧領地を勲功のあった者たちに賜った。
7/9 政子の侍女たちにも領地が分け与えられた。
閏7/19 牧の方が在京の平賀朝雅をして将軍にしようと画策しているとの風聞があり、実朝は北条義時邸に置かれ、守られることとなった。同日、北条時政は出家する。
閏7/20 北条時政は伊豆に下向し、同日、北条義時が執権となる。
閏7/26 平賀朝雅が京で誅殺される。

元久三年(建永元年) 1206年
12/23 実朝の不興を買って謹慎処分となっていた近習(東重胤)に対して北条義時がアドバイスをし、実朝から赦しを得ることができた。重胤は恩に感じ、義時に永遠の忠誠を誓う。

承元四年 1210年
2/10 (「阿氐河荘百姓言上状」で有名な)阿氐河荘の地頭職を文覚上人から譲り受けたとして湯浅宗光が安堵の御下文を求めてきた。審議の結果、これが許され、宗光は下文を得ることができた。

承元五年 (建暦元年)1211年
6/7 殺人事件が置き、和田義盛が犯人を捕らえる。しかし後日、真犯人が捕まり、義盛が捕らえたものは無罪となる。(和田義盛の失態をわざと掲載していると思われる。無能さを強調したかったのか?)
10/13 鴨長明が鎌倉に下向する。(実朝の和歌の師匠になろうとしたらしい)

建暦三年 (建保元年)1213年
1/1-4 椀飯が以下の順で行われる。大江広元、北条義時、北条時房、和田義盛の順。
(「椀飯」は、御家人たちが将軍をもてなす儀式。順番が御家人内の序列を示す。この年の5月に和田合戦(和田義盛による謀反)が起きるが、年初には序列四位であったことが分かる)
2/16 信濃源氏の流れをくむ泉親衡が、源頼家の遺児(千寿)を将軍に擁立して北条義時を討とうとする謀反が発覚し、二百人余りが各地で捕らえられる。その中には和田義盛の息子たち(義直、義重)と甥(胤長)がいた。
3/8 和田義盛の長年の功績により、義直、義重が赦免される。
3/9 和田義盛が一族を率いて胤長の赦免を願い出るが許されなかった。しかも、北条義時の命で、彼らの目の前で胤長は縄打たれた。これを恥辱と感じたことが和田義盛の謀反の引き金となった。
4/2 一度は和田家のものとなった胤長の旧屋敷が突如、北条義時に払い下げられる。和田義盛の怒りはさらに強くなり、謀反は避けられないものとなった。
5/2 和田義盛らが蜂起し、御所を急襲する。合戦は翌日まで続き、ついに和田義盛は討ち取られる。
5/5 和田義盛の後を受け、北条義時が侍所別当となる。 

★基本データ&目次

編者五味文彦, 本郷和人
発行元吉川弘文館
発行年2009
副題頼家と実朝 建仁元年(1201)~建保元年(1213)
ISBN9784642027144
  • 本巻の政治情勢
  • 吾妻鏡 第十七 建仁元年(1201年)
  • 吾妻鏡 第十七 建仁二年(1202年)
  • 吾妻鏡 第十七 建仁三年(1203年)
  • 吾妻鏡 第十八 元久元年(1204年)
  • 吾妻鏡 第十八 元久二年(1205年)
  • 吾妻鏡 第十八 建永元年(1206年)
  • 吾妻鏡 第十八 承元元年(1207年)
  • 吾妻鏡 第十九 承元二年(1208年)
  • 吾妻鏡 第十九 承元三年(1209年)
  • 吾妻鏡 第十九 承元四年(1210年)
  • 吾妻鏡 第十九 建暦元年(1211年)
  • 吾妻鏡 第二十 建暦二年(1212年)
  • 吾妻鏡 第二十一 建保元年(1213年)

★ 感想

源氏政権はどうしてこうも“身内同士”の殺し合いが多かったのでしょうか。頼朝の弟たちはことごとく誅殺されている。この巻でも、1203年に阿野全成が誅殺されている。謀反の疑いがあって常陸国に流罪になったあと、殺された。記事は簡潔でそれしか書かれていない。「書けない事情」があったとどうしても勘ぐってしまう。
同じ年には実朝が三代目の鎌倉殿となるが、それに絡んで比企能員が誅殺され、比企氏は滅亡する。
翌年には“病気療養中”の頼家が亡くなる。こちらも詳しいことは何も書かれていない。前将軍の死にしてはあまりにもそっけない。
1205年には畠山重忠が討たれ、京では平賀朝雅が誅殺される。1213年には和田合戦で和田義盛が討たれ、和田家は滅亡する。

いやはや、血で血を洗う権力争いは凄まじいものだ。北条時政も、殺されはしなかったものの、鎌倉を追われ、伊豆に引っ込んでしまった。平家を滅ぼし、奥州藤原氏を滅亡させたあと、御家人たちに恩賞として与える新たな土地が手に入らなくなったのだから、あとは“共食い”しかなくなったということか。
そう考えると、江戸幕府が何百年も続いたのは“武士政権”としては異例なのだろうか。統治機構が整ったということなのだろうが、どう変わっていったのかを改めて見てみるのは面白そう。

頼朝は“中興の祖”として持ち上げているけど、二代目、三代目には容赦がないのが吾妻鏡の特徴だ。頼家に関しては「蹴鞠をXX百回した」という記事ばかりで、泰時の善政との違いを強調しているのが目に付いた。頼家が死んだ時も一言程度の“事務報告”で終わっている。

ということで(?)、「鎌倉殿の13人」の主人公である北条義時が執権となった辺りでこの巻はおしまい。さてさて、次は誰が消されるんだっけな。

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