私たちはどのような世界を想像すべきか

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10作品のレビューNetGalleyを利用して読みました。

★あらすじ

本書は、東大に入学したばかりの新入生を中心に、2020年度に駒場キャンパスで行われた学術フロンティア講義「30年後の世界へ―『世界』と『人間』の未来を共に考える」の内容をまとめたものだ。ビデオ公開もされている。

我々が望む未来へ向かうため、想像力と感性を養うことがこの講義の目的である。「学門」とは「問うを学ぶ」と読める。学門とは問いを立てることであり、不断の問いから未来に対する想像力は鍛えられる。

「人新世」時代の人間を問う 滅び行く世界で生きるということ

世界と人間の未来を考えるに際しては「人新世」と言う考え方が重要だ。では、その「人新世」はいつから始まったのだろうか。提唱者のクルッツェンは十八世紀後半の蒸気機関の発明からとしている。一方、火の使用や農耕開始を挙げる人もいる。今、注目されているのは「1950年代の大加速」だ。人間の活動の爆発的増大による自然環境の大変化がこの頃に特異になってきたからだ。

人間の科学文明の発展による自然統御の進展という歴史観・文明観を問いなおさねばならない。その時に「多なる世界からなる一つの世界(a world of many worlds)」という考え方がある。人間から見た世界だけではなく、様々な生物から見た世界はまた違ったものだろう。それら多くの世界が集まったものが一つの世界となる。そして、その中で人間とは「人間とは何か?」を探求する存在と再定義できるだろう。

脳科学の過去・現在・未来

ヒポクラテスの時代には既に「心とは脳である」と考えられていた。現代では、脳の各部がどのような能力・情報処理に関わるのかも分かってきている。さらに最近では、個人差(もしくはグループ間の差異)も研究の対象となっている。
だが、「音楽家は~」とか「精神的な病を持つ人は~」という一般化は可能だろうか。「男女差」を題材にした研究がある。脳の各部位の体積を男女で分けて計測してみたのだ。結果、有意な差はないことが分かった。あるのは個人差だけだった。
では、個人に対しては脳を見るだけでその人の能力や性格などが分かるのだろうか。だが、これも難しい。体積だけを見ると、一週間くらい何かを特訓すると、脳のある部位が分厚くなったり、活動が活発になったりするのだ。脳は環境に対して影響を受け易い、詰まりは「可塑性」を持っていて、遺伝的・先天的なものだけでは決まらない。

AI時代の潜勢力と文学

AIはチェスの世界チャンピオンを破り、プロ棋士にも勝っている。いまや、AIが人間の能力を超える「シンギュラリティ(特異点)」はいつなのかが大きな話題となっている。ある能力を見ればAIは人間を超えるだろう。だからこそ、今、人間性を見直すべきだ。
AIが人間を超えるかどうかを考えるには、そもそも人間性とは何かを問いなおさねばならない。我々は日常生活に置いて、命題化された事実や手段―目的の枠組みの “外” で生きている。人は「無知」であるからこそ「人間」たり得る。その点、AIは完全すぎる。囲碁や将棋は、対戦者が完璧でないから勝敗が付く。 “将棋の神様” 同士が対戦したら勝敗は付かないだろう。

★基本データ&目次

編者東京大学東アジア藝文書院
発行元トランスビュー
発行年2021
副題東京大学 教養のフロンティア講義
ISBN9784798701806
  • 第1講 「人新世」時代の人間を問う——滅びゆく世界で生きるということ…………田辺明生
  • 第2講 世界哲学と東アジア…………中島隆博
  • 第3講 小説と人間——Gulliver’s Travelsを読む…………武田将明
  • 第4講 30年後を生きる人たちのための歴史…………羽田正
  • 第5講 脳科学の過去・現在・未来…………四本裕子
  • 第6講 30年後の被災地、そして香港…………張政遠
  • 第7講 医療と介護の未来…………橋本英樹
  • 第8講 宗教的/世俗的ディストピアとユマニスム…………伊達聖伸
  • 第9講 「中国」と「世界」——どこにあるのか…………石井剛
  • 第10講 AI時代の潜勢力と文学…………王欽
  • 第11講 中動態と当事者研究——仲間と責任の哲学…………國分功一郎・熊谷晋一郎

★ 感想

ドラマ「ドラゴン桜」で、「東大は自分でものを考えられる人を採る」といった主旨のことを言っているが、一年目からこんな講義を聴いているんだと思うとたしかにそうなのかも知れない。どの講義もなるほどと思わせるものばかりだった。

講義のテーマが「三十年後の世界へ」とあるが、決して単純な未来予想の話ではない。今を見直すことによって、そしていま起きている新たな流れを捉えることによって、未来をどうしていきたいのかを考えようということのようだ。まさに未来を担う若者にとってよいキッカケとなりそう。

第一講の「人新世」の話、多様性云々が叫ばれる中、人間が多様性を守るんだという “上から目線” をやめろ、ということだと思う。命あるもの全てがそれぞれに世界を持っていて、世界の見え方、価値観は異なっているんだという考えに立って、改めて「ではみんなの世界はどうしよう」となるのだろう。
宇宙的タイムスケールで見れば、人類はいずれ滅びる。それを踏まえながらも、ではどう生きていくのかと問い続けながら進んでいかねばならないのだろう。「神は死んだ」と宣言したあとに、人間が自然を克服するんだと突き進んできたが、またここで「そんな人間も特別な存在ではない」と気づいてしまった訳だ。若い学生さんはもちろんだが、私達も考えねばならない問題だろう。

第三講では、「ガリヴァー旅行記」を題材に、小説の中で未来を予想していた(かのように思える)という話が中心になっている。ジョージ・オーウェルの「1984年」は、未来を超監視社会・全体主義社会として描いている。オーウェルは「ガリヴァー旅行記」も同じで、ヤフー(馬の国の人間たち)は未来の自分たちだと読み取ったが、それは深読みし過ぎだろうと講師は言っています。でも、スウィフト(「ガリヴァー旅行記」の作者)は、十八世紀初頭の革命の時代に生きていて、そこで感じた危機感をベースに物語を描いていて、二十世紀・二十一世紀を予言したわけではないけど、普遍性があるからこそ “そのように読める” のだと説いています。
温故知新とはそういうことなのでしょう。当たり前のことではあるけれど、歴史を学び、そこから未来を考える(教訓を得る)ということはやっぱり大事だなと思えたのでした。

テーマによって分かり易いものもあれば、これはどういうこと?と思うものもあり、という感じ。でも、どれも未来に対して不確実さの増した今だからこそ考えるべきことばかり。うむ、勉強になりました。

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