現代語訳吾妻鏡 8 承久の乱

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★あらすじ

建保二年 1214年
2/4 実朝の病気見舞いに栄西が茶葉と自分が書いた書物を献上する。茶の効能を書いた書物だ。
(「喫茶養生記」のこと)
4/23 「京都の園城寺(三井寺)が延暦寺衆徒の襲撃を受け、放火され、建物の殆どが消失してしまった」との知らせが届く。
5/7 実朝は御家人たちに園城寺再建を命じる。園城寺は源氏ゆかりの寺であったためだ。

建保三年 1215年
1/8 去る1/6に北条時政が死去した、と伊豆から鎌倉へ知らせが届く。
9/27 九月に入り、地震が頻発する。群発地震を鎮めるため、地震祭が執り行われる。
11月、12月 惑星の配置の縁起が悪いとして、幕府お抱えの陰陽師から報告が相次ぐ。
11/25 和田義盛らが大挙して実朝の夢に現れたとして、急遽、仏事が執り行われる。地震や怪異が続いていたこともあった。

建保四年 1216年
1/15 江ノ島へと続く砂州が地震で隆起したのか、江ノ島が陸続きとなる。三浦義村が確かめに行き、「霊験あらたかだった」と報告した。
6/15 東大寺再建に尽力した、宋から渡来した陳和卿が実朝に対面する。そして「あなたは前世で宋の長老で、私の師匠だった」と語る。実朝も昔、同じような夢を見ていたためにこれを信じ、深く帰依する。
閏6/14 今月1日に、中原広元が大江広元に改名することを天皇から許されたとの勅許が届く。実家の大江家を守るため、広元自身が望んでいたことだった。
9/18 北条義時が大江広元に「源実朝はまだ若いのに官位官職をどんどんと受けられて、不相応なほどになっている。諌めてほしい」と相談した。大江広元もこれに賛同する。
9/20 大江広元から源実朝に、官位官職の件について意見を述べた。すると実朝は「自分の代で源氏の正統は途絶える。だから今のうちに家名を上げておきたいのだ」と返答した。広元はこれに対し何も答えられなかった。
11/24 前世の故郷である宋に行きたいと実朝が考え、唐船の建造を命じる。北条義時や大江広元から諌められたが聞き入れなかった。

建保五年 1217年
4/17 陳和卿が唐船を完成させる。由比ヶ浜に浸水させようとしたが地形的に無理で、結局は浜に打ち捨てられ、朽ちるままとなった。
11/8 大江広元が病気になる。後に直るが、視力が衰える後遺症が残る。
11/10 大江広元が延命を願い、出家する。併せて陸奥守を辞任する。陸奥守の後任は北条義時が朝廷に推挙され、すぐに認められる。建保六年 1218年
6/21 実朝が左大将に任じられた祝を催そうとし、京都からも大勢、祝賀にやってくる。接待は御家人たちで、贈り物も華美であった。これは全て庶民の負担となっていた。
6/27 実朝の左大将任命の祝賀行事が鶴岡八幡宮で執り行われ、大勢が参加する。
6/28 満月と同じくらい大きな流星が観測される。
9/27 京都から知らせが届き、延暦寺の衆徒が御輿を担いで騒ぎを起こしたと知らせてきた。寺院関係者が殺害され、犯人は捕まったが、その所領を没収して寺領にせよと強訴してきた。しかし、担ぎ手の一人の腕を切り落としたところ、衆徒は逃げ帰った。神輿はその場所に置き去りにされる。
12/20 去る二日に、実朝が右大臣に任じられた。そのため、政所始が行われる。
12/26 右大臣拝賀を鶴岡八幡宮で行うための準備が進められる。頼朝の時には「随行するものは弓馬に優れた」猛者を選ぶようにしていたが、実朝近臣の文士(文官)が志願してきたので、実朝はこれを許す。

建保七年(承久元年) 1219年
1/27 夜になって雪となる。実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参る。行列は一千騎の規模だった。楼門に実朝が入った時、御剣役を仰せつかっていた北条義時が急病となり、帰宅してしまった。そのため、御剣役は文章博士の源仲章となる。
儀式が終わり、実朝が外に出た時、鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の影から剣を持って躍り出て、実朝を殺害した。実朝の首を抱えながらその場を逃亡した公暁は、三浦義村に自分を将軍として推すよう伝える。しかし、義村はすぐに北条義時へ報告。義時は「公暁を誅殺せよ」と命じる。
その晩のうちに公暁は討たれ、首を落とされた。北条政子は「今晩のうちに公暁の一味を誅殺せよ」と命じた。
2/13 北条政子の命を受けた二階堂行光が上洛する。雅成親王か頼仁親王のどちらかに関東の将軍を継いでもらうよう頼むための使者だ。
2/15 阿野全成の子阿野時元が駿河国で城郭を構え、謀反を企てているとの報が届く。翌日、北条政子の命で北条義時が御家人の金窪行親らを差し向ける。
2/22 時元らは敗走し、翌日、時元は自殺する。
閏2/12 二階堂行光が鎌倉に戻り、後鳥羽院の考えを伝えた。「どちらかの親王を下向させるが、今すぐではない」とのこと。
4-6月の分が欠落
7/19 左大臣 藤原道家の子ども 三寅(後の頼経)が(次期将軍として)下向した。(結局、親王ではなく、公家の子どもとなった)三寅は未だ二歳。政所始も行われたが、北条政子が簾中から裁断することとなる。
7/25 後鳥羽上皇の命に背いたとして源頼茂(みなもとよりもち)が誅殺された。邸宅を襲撃され、一味の多くも自害。その際、火災が発生し、内裏の多くの建物・宝物が焼失した。三寅の下向と重なったため、京都からの連絡が遅れたという。
12/29 京都から「彗星が観測され、騰蛇宮へ入った」との知らせが届くが、関東では観測されていないと司天の者たちは応えた。

承久二年  1220年
1/14 北条時房の息子 資時・時村が二人とも出家した。人びとは急なことだったため怪しんだ。
6/10 京都の左府藤原道家から「昨年の彗星観測に伴って、朝廷では祈祷が行われた。なぜ関東で見えなかったのか不審だ。若宮(三寅)の祈祷を行うべきだ」と伝えてきた。
6/12 彗星の件に関し、左府の命令に従うべきか審議があった。

承久三年  1221年
3/22 北条政子が不吉な夢を見る。「戦乱が起き、北条泰時が活躍する」とする声を聴いた。
5/19 後鳥羽院による北条義時追討の宣旨が出された旨、京から知らせが届く。また京都守護の伊賀光季が後鳥羽院の命に背いたとして誅殺されたことも併せて知らされた。
三浦義村は、京都にいた弟が朝廷側に加わったと知り、すぐに北条義時の元に参じ、忠誠を誓う。
北条政子は御家人たちに「源頼朝から受けた恩(官位・俸禄)を忘れるな。」と訴える。
軍を京都に送るか、鎌倉で待ち構えるかで議論が為されたが、大江広元は「待っている間に異論が生じる。何があっても軍を京都にすすめるべき」と進言する。結果、北条泰時が大将軍となって十数騎の軍勢でまずは出立した。
5/25 東国武士が次々に参戦し、北条泰時の軍勢は十九万騎にまでなっていた。
5/26 大軍勢の到来の方を聞き、朝廷は慌てふためく。三院(後鳥羽・順徳・土御門)による立願をすることとなり、五社に行幸することが決まった。
6/14 宇治川の宇治・瀬田で激戦となる。雨のために増水していた宇治川を泰時の軍勢は無理に渡河する。多くの溺死者を出したが何とか成功し、官軍を打ち破った。
6/15 敗戦を悟った後鳥羽院は院宣を泰時に届ける。泰時は陣中で院宣の読めるものを探し、藤田能国が読み上げた。そこには「今回の合戦は後鳥羽院の本意ではなく、謀臣が申したものだった。泰時の言うとおりに宣下するので、京中で狼藉を働かないように」と書かれていた。
時房・泰時は六波羅に到着する。合戦に加わった近臣・寵臣はことごとく捕らえられた。ここに八十五代続いた天皇家は途絶えようとしていた。
6/17 宇治川渡河の先陣争いが佐々木信綱と芝田兼義の間で起こる。芝田が先に渡河を始めたが、途中で馬が矢で射られ、その間に佐々木が先に川を渡りきった(敵陣に先に到着した)というものだった。どちらに功績があるか判断付かず、そのまま関東に報告することとなった。
6/18 関東へ合戦の報告を送った。そこには功を上げたもの、負傷したもの、死亡したものが列挙された。
7/8 高倉天皇の子 守貞親王が世を治めることとなる。後鳥羽院は出家した。
7/13 後鳥羽上皇は隠岐へ配流となった。
8/7 功績のあったものへ、敗者から没収した領地を配分した。北条泰時が執り行ったが自身は全く受けることをしなかった。人びとはこれを美談と賞賛した。

★基本データ&目次

編者五味文彦, 本郷和人
発行元吉川弘文館
発行年2010
副題承久の乱 建保二年(1214)~承久三年(1221)
ISBN9784642027151
  • 本巻の政治情勢
  • 吾妻鏡 第二十二 建保二年(1214年)
  • 吾妻鏡 第二十二 建保三年(1215年)
  • 吾妻鏡 第二十二 建保四年(1216年)
  • 吾妻鏡 第二十三 建保五年(1217年)
  • 吾妻鏡 第二十三 建保六年(1218年)
  • 吾妻鏡 第二十四 承久元年(1219年)
  • 吾妻鏡 第二十四 承久二年(1220年)
  • 吾妻鏡 第二十五 承久三年(1221年)

★ 感想

源実朝が公暁に暗殺され、源頼家の息子である公暁も誅殺された。さらには、源頼朝の弟で既に誅殺されている阿野全成の子である阿野時元も謀反の末に自害する。ここに鎌倉殿としての源氏の系譜は途絶えた。いやはや、最後はあっけない。
幸か不幸か、その後に起きた承久の乱によって、関東の御家人たちは北条義時・北条政子の下で結束することになり、北条氏による鎌倉幕府が盤石なものとなった形だ。いや、朝廷をも下に置くことになり、武力だけではなく、権威としても日本のトップに立ったことになるのだろう。吾妻鏡も、八十五代続いた天皇家の歴史がこれで途絶えようとしている、と書いている。

陰陽師の“活躍”が目立った。そして、合戦でも病気でも神仏に祈る。地震や雷の記事も多いし、この時代の人びとの精神世界は我々とは大きく異なっているのがよく分かる。そのせいか、彗星観測について朝廷と鎌倉側で意見が分かれた話がわざわざ載っているのは、それだけ大きなことだと思っていたからでしょう。互いに相容れない存在となったということが、我々が思う以上にこの件で示されているのでしょう。天の声を本当に理解できるのはどっちなのか、と。
歴史を理解するには、当時の人びとの「常識」を知らないといけないことがよくわかります。とは言え、これはかなり難しいもの。どうしても現代の感覚、自分たちの常識が知らないうちにフィルターとなってしまい、それを通した解釈しかできない。注意深い読み込みが必要だ。

その意味で、なぜ完全に朝廷を滅ぼしてしまわなかったのかはよくわからない。中国でも、前の王朝を滅ぼして、次が取って代わるという繰り返しだった。承久の乱でも一気に関東勢が京都や西国を取り込んでしまえばいいのに、と思ってしまう。この辺り、どういう感覚だったのだろうか。
その答えは続刊を読んでいけば分かるのだろうか。探っていきたいと思う。

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