<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々

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★あらすじ

出雲大社はスサノヲノミコトやオホクニヌシノカミを祀っていて、アマテラスオホミカミを祀る伊勢神宮とは対をなす存在だ。

天皇制国家の下で確立された「国家神道」は、アマテラスオホミカミを始祖とし、その子孫である天皇も神であるというものだ。だが、これは明治維新やその後の教育勅語、大日本帝国憲法に盛り込まれた、天皇中心体制を裏付けるためのものであって、江戸時代後期に起きた復古神道においてはもっと多様な思想が展開されていた。
「古事記」や「日本書紀」を実証的に探求する国学を中心に、神学も議論され、本居宣長や平田篤胤らが独自の解釈を施していった。そこではまず、「古事記」を重視するのか、「日本書紀」を重視するのかで違いが生じる。また、「日本書紀」においてもその“本文”なのか、別に書かれた“一書”に重きを置くかの違いがある。それらの中ではアマテラスオホミカミとその子孫だけではなく、出雲の神々(スサノヲノミコトやオホクニヌシノカミ)の物語が展開されていた。

出雲大社では、出雲国造(いずもこくそう)と呼ばれる世襲制の神主が祭祀を司っていた。その祖先はアメノホヒノミコトという神であり、天皇と同様に出雲国造も「生き神」であったのだ。しかも、その権威は、天皇が明治以降に神格化されたものよりも古く、古来から人々に崇められていた。
平田篤胤は「日本書紀」の「一書」を中心に解釈を進め、出雲の神であるオホクニヌシノカミが(死後の)目に見えないがどこにでも偏在する世界を治める神であるとした。これは、現世を治める天皇であっても、死後はオホクニヌシノカミの支配下に置かれることを意味していた。そのため、キリスト教やマルクス主義ほどではないものの、絶対的な天皇制を唱える明治政府の意図に反するため、反体制的思想と見做されていくことになる。

第二部においては、武蔵国一宮である大宮氷川神社を有する大宮が、なぜ埼玉県の県庁所在地とならなかったのかの謎に迫る。それは、氷川神社と名づけられた神社が埼玉や東京の一部にのみ集中していて、他県では数えるほど(数カ所)しかないのかということにも関係していることを、出雲と武蔵の関係から紐解いていく。

★基本データ&目次

作者原武史
発行元講談社(講談社学術文庫)
発行年2001
副題近代日本の抹殺された神々
ISBN9784061595163
  • まえがき
  • 第一部 復古神道における<出雲>
    • はじめに ― <伊勢>と<出雲>
    • 一 「顕」と「幽」
    • 二 本居宣長と<出雲>
    • 三 平田篤胤と<出雲>
      1. 初期の著作
      2. 「霊の真柱」
      3. 「古史成文」「古史徴」「古史伝」
      4. 後期水戸学との比較
    • 四 篤胤神学の分裂と「幽冥」の継承
      1. 造化三神と「幽冥」 ― 佐藤信淵・鈴木雅之
      2. アマテラスと「幽冥」 ― 大国隆正・本多応之助
      3. オホクニヌシと「幽冥」 ― 六人部是香・矢野玄道
    • 五 明治初期の神学論争
      1. 「津和野派」と神道国教化構想
      2. 千家尊福と祭神論争
      3. 「国家神道」の完成
    • おわりに ― <出雲>を継ぐもの
  • 第二部 埼玉の謎 ― ある歴史ストーリー
    • はじめに ― 個人的体験から
      1. 出雲と武蔵
      2. 埼玉県の成立と大宮の動向
      3. 千家尊福の知事時代 ― 古代出雲の復活
    • おわりに ― 出雲の神々のたそがれ
  • 原本あとがき
  • 学術文庫あとがき

★ 感想

古代社会では、力を持った勢力が他を制圧して支配下に置くと、自分たちの神話を押しつけると言われている。「君たちの信じていた神様は、実はうちの神様の家来だったんだ」だとか、「君たちの神様は、うちの神様の化身だ。だからうちの神様を信じなさい」という感じ。出雲のオホクニヌシノカミ(大国主命)も、国造りをしたにも関わらず、天皇家の祖先である高天原の神々に国を譲るという記述が「古事記」や「日本書紀」にあるのは知っていた。単純に、大和政権が出雲の勢力を制圧したんだな、と捉えていた。

政治的にはそうだったのかも知れないけど、思想・神学的にはもっともっと深い話があったのだと初めて知った。江戸後期の国学者たちの思想もよく知らなかったので、単純に明治維新以後の国家神道の元になったもの程度の理解だったが、それも違っていた。
特に平田篤胤は「日本書紀」の「一書」(キリスト教の聖書で言う“外伝”のようなもの?)に重きを置いて、実はオホクニヌシノカミは“現世”の支配権を天皇方に譲っただけで、この世界の真の姿である「幽冥」の世界を支配し続けている、だから本質的にオホクニヌシノカミの方が“上の立場”にあると説いているとのこと。これは、皇帝も教皇も死ねばキリストの(神の)裁きを受けるとするキリスト教にも似ている。神学的には、現人神という形よりも、目に見えないが絶対的な力を持つ存在がいる、とした方がしっくりくるということなのだろうか。

明治維新以後、そして戦前の天皇中心体制に依拠した“国家神道”を、良くも悪くも引き摺っている我々にとって、新鮮な話ばかりだ。そして、馴染みの薄い話だが、本居宣長や平田篤胤らの思想を順に紐解いていく形で進めていった本書は分かり易いものだった。なるほど、実はそう言う考えがあったのかと頷きながら読み進められた。

一転して第二部は、著者自身の思い出話や、“クイズ”的な問いから始まる、ちょっと柔らかめの書き出し。でも、第一部の話とちゃんと繋がっていて、面白かった。出雲国造であった(出雲大社の神主で、こちらも神の末裔・現人神)人が後に埼玉県知事や東京府知事まで歴任したなんてのは初耳だった。

日本の神話も奥が深く、知るべきことが多いと思わせてくれた一冊だった。

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