世界哲学史3

記事内にアフィリエイト広告が含まれています。

★あらすじ

古代から現代まで世界哲学史を一望に収める八巻シリーズの第三巻。
本巻では紀元後七世紀から十二世紀までの時間的範囲を区切り、各地域の知の営みを見ていく。一般的に「中世」と呼ばれている時代だ。インドや中国にも「中世」という区切りがあるかという問題があるが、十三世紀に世界システムが始まって近世への移行が進むことを考えると、一つの時代の区切りとして考えられるだろう。

中世初期、アラビア世界ではイスラームが確立し、アラビア半島からアフリカ北部、スペイン、中央アジアへと版図を広げた。中国では隋・唐の黄金期を迎え、その後、宋による統一を迎えている。日本でも空海に代表されるような “形而上学” を語る思想家が現れている。方やヨーロッパでは、地中海沿岸の古典文化がゲルマン世界に流入して、独自の展開が起きている。

それ以前の古典文化においては、聖書、クルアーン、仏典、四書五経などの文献が作成された時代だ。そして中世においては、古典を継承しつつ、註解(コメンタリー)を蓄積した時代と言える。
中でも、古代と中世を結ぶ、そして西洋とイスラーム世界をまたがって文化的基礎となったのがギリシア哲学、特にアリストテレスだ。
そんな中世は決して空白の時代ではない。古典古代を継承発展させ、古代では論じられなかった論点を付け加える形で「超越」を成し遂げたのだ。

中世ヨーロッパの修道院の中では教父と呼ばれる人たちが信仰生活を送るとともに、「私は信じるために理解することは望まず、理解するために信じている」として知的活動も行っていた。
アンセルムスは、「理解のうちにのみあるものよりも、実在として存在する方がより偉大だ。だから偉大な神は実在する」という議論を進め、神の存在論的証明を行っていった。また、彼はアウグスティヌスと同じく、「悪は善の欠如である」としている。だが、「なすべきでないことをすること」だけが悪ではなく、「なすべき事をしないこと」も悪であるとしている点はアウグスティヌスの主張とは異なっている。

★基本データ&目次

作者伊藤邦武, 山内志朗, 中島隆博, 納富信留
発行元筑摩書房(ちくま新書)
発行年2020
副題中世Ⅰ 超越と普遍に向けて
ISBN9784480072931
  • はじめに
  • 第1章 普遍と超越への知 山内志朗
  • 第2章 東方神学の系譜 袴田 玲
  • 第3章 教父哲学と修道院 山崎裕子
  • 第4章 存在の問題と中世論理学 永嶋哲也
  • コラム1 ローマ法と中世 薮本将典
  • コラム2 懐疑主義の伝統と継承 金山弥平
  • 第5章 自由学芸と文法学 関沢和泉
  • 第6章 イスラームにおける正統と異端 菊地達也
  • 第7章 ギリシア哲学の伝統と継承 周藤多紀
  • コラム3 ギリシアとイスラームをつないだシリア語話者たち 高橋英海
  • コラム4 ギリシア古典とコンスタンティノポリス 大月康弘
  • 第8章 仏教・道教・儒教 志野好伸
  • 第9章 インドの形而上学 片岡 啓
  • 第10章 日本密教の世界観 阿部龍一
  • あとがき
  • 編・執筆者紹介
  • 年表
  • 人名索引

★ 感想

中世、特に中世ヨーロッパの思想的世界というと、聖書をこねくり回し、註解・注釈と称して同じような御託を並べるだけの、停滞・閉塞した暗黒の時代というイメージがどうしても強かった。実際、やっていたことは註解・注釈だったわけだが、さすがに何も新しいものが加えられなかったわけではなかったようだ。
古典を紐解くため、彼らは物事をどう考えればいいのか、についても色々と考えている。つまりは“論理学”だ。問いの立て方や回答の仕方、それが意味あるものであるか否かなどだ。「神の存在論的証明」を通して、

  • 私達は、そのものの存在を知っているから、そのものについて語ることができる。
  • しかし、観念の中にあるからと言って、それが実在するとは言えない。

といった具合の議論だ。概念の対象である “もの” の実在性、イデアとロゴスの違いなどが論じられている。単純に信仰を前提とする訳ではない議論がちゃんと為されていたようだ。

一方で、我らがアジア圏においては、それまでは儒教の世界だった中国に仏教が流入してきたことによる “混乱” と受容、そしてインドでは仏教徒バラモン教との対立による認識論の発展の動きが面白い。
「インド哲学の一般的な傾向として、文法学という言葉の学問が諸哲学のアイデアの源となっていることは注意して良い」とのことだが、これは認識論を語る際に古今東西を問わず、言えることのようにも思える。まさにイデアとロゴスの関係だ。

本書の冒頭で、世界システムが出来上がる以前の世界が「中世」だと定義しているが、その中世の時代においても、各地域、そして宗教の違いを超えて、似たようなことを人々は考え、悩んでいたようだ。もちろん、古代においても地域間の交流はあったし、中世でも然りだが、それでも世界を一括にはしにくい。そんな時代に同じことを人々が考えているということは、そういう考えを持つことが脳みその、生物学的な人間という生き物の仕組みから必然的に起きてくるのだろうか。生物進化には「収斂」という “現象” が知られている(系統上全く繋がりがないが、似たような形や特徴を持った種が生まれること)が、頭の中身でも似たようなことになっているのだろうか。

世界的に思想・哲学は地域や時代で異なっている。それをまとめるのが世界哲学の狙いだ、とされているが、なんか本書を読んだら「元々が一緒、似たようなものじゃないの?」と単純に思えてしまった。
さて、それは私の浅はかな理解か誤読によるものだろうか。続刊を読み進めていってその答えを考えたいと思う。

★ ここで買えます

コメント