現代語訳吾妻鏡 6 富士の巻狩

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★あらすじ

建久四年 1193年
1/5 工藤祐経宅に“怪鳥”が飛び込み、占った後に不吉ゆえ、祈禱を行う。 後に曽我兄弟に祐経が討たれることを暗示させる記事らしい。
3/14 文覚上人が播磨国を知行し奉行するよう、頼朝が取り計らう。東大寺修繕が資金難になっていたため、文覚上人からの依頼を受けてのこと。東大寺修繕は重要なこととは言え、一国を与えるほどの関係だったようだ。
3/16 京都近郊に平家残党の平盛継が潜伏しているとの風聞があり、追討を命じている。この時期になっても未だに平家残党が存在していたようだ。
4/19 工藤祐経宅から出火。その一軒のみが焼失する。1/5の記事といい、この先の事件をことさら暗示しているように見える。
5/28 曽我兄弟の仇討ち(工藤祐経殺害)が実行される。兄の祐成はその場で討ち取られる。弟の時致は捕らえられ、翌29日に梟首される。
8/2 頼朝から謀反の嫌疑をかけられた源範頼から弁明の起請文が届く。頼朝は署名に「源」姓を使っていることを咎める。
9/1 北条義時の息子 金剛(後の泰時)が元服する。頼朝自身、そして主だった御家人が集い、儀式を執り行う。

建久五年 1194年
3/25 伊東祐親、大庭景親らの菩提を弔う十種供養が執り行われる。 大庭景親が処刑されたのが1180年、伊東祐親が自害したのが1182年だから十年経っての供養となる。
4/21 文覚上人預かりの身となっていた平六代(清盛 > 重盛 > 維盛 > 六代)が鎌倉に来て、異心のないことを頼朝に弁明する。
5/14 六代の扱いについて、鎌倉にしばらく留まるようにとの沙汰があった。平治の乱後、平重盛が源氏方に対して取りなしをしてくれた恩を頼朝が忘れていなかったためとのこと。
6/15 頼朝は六代に対し、「異心がないのならば一寺の別当職を与える」旨、言い伝える。
9/22 頼朝の歯痛が再発(?)する。9/26には京都の医師に処方を尋ねるため、使者が送られる。

建久六年 1195年
1/4 頼朝は安達盛長の甘縄の屋敷を訪れる。安達の屋敷訪問の記事はしばしば見られ、頼朝に流人時代から仕えていた安達盛長は、頼朝から非常に信頼されていたことが分かる。
2/12 東海道に、未だに源行家、源義経の残党がいるとして、その探索・追捕のために比企能員と千葉常秀が派遣される。これは、東大寺修繕完成祝いに頼朝が上洛するに辺り、警護の一環として行われた。
3/12 東大寺で供養が行われる。大仏建立・東大寺造営の歴史が併せて語られる。

正治元年 1199年
2/6 吾妻鏡は四年の空白が空き、この年の正月に頼朝が亡くなったあと、この日から記録が再開される。この日、源頼家の下に「頼朝の跡を継いで諸国の守護を奉行せよ」との宣旨が京都から届く。家督相続は一月中に行われていたが、朝廷からもそれが認められたことを意味する。
4/1 問注所が設置される。訴訟の数が増え、さらにその場で争いも起きるようになったため、御所の外に設けることとなった。
4/12 訴訟処理は頼家が直に裁断することを止め、いわゆる“鎌倉殿の13人”が任命され、彼らが引き受けることとなった。
8/19 頼家は、安達景盛の妾に手を出したあげく、景盛に対する讒言を聞き入れ、誅殺しようとする。だが、北条政子(当時、尼御台所と呼ばれている)に諫められ、事なきを得た。
将軍に対して北条政子が上位の立場にあったことを示すための記事と思われる。
10/27 梶原景時の讒言によって多くの者が処罰されたことに対し、御家人たちが集まり、連盟の訴状を作成する。
10/28 梶原景時訴追の訴状を持って御家人たち総勢六十六名が鶴岡八幡宮に集結し、神前で訴状を読み上げる。
11/18 頼家が比企能員の家を訪れ、蹴鞠や酒宴を楽しみ、一泊する。頼家と比企家との近さを感じさせる記事だ。
12/18 梶原景時が鎌倉から追放され、自身の領地である相模国一宮に移る。鎌倉の屋敷は直ちに破却され、僧侶に払い下げられる。

正治二年 1200年
1/20 上洛しようとしていた梶原景時一族に対し、追討軍が派遣され、この日、梶原一族はことごとく討ち取られ、滅亡する。翌日、景時らの首が路上に晒された。
5/12 頼家が念仏僧の黒衣を嫌い、比企時員らに命じて、剥ぎ取って焼いてしまうことがあった。だが、一人の僧は「今の政治では仏法・世法が滅亡する」と訴えたとのこと。頼家が宗教的にもトップに相応しくないということを示した記事か。
巻末に、文覚が頼家に宛てた手紙の文面が載っている。頼家が政治をないがしろにしていることを咎め、改めるようにと迫った糾弾の書だ。

★基本データ&目次

編者五味文彦, 本郷和人
発行元吉川弘文館
発行年2009
副題富士の巻狩 建久四年(1193)~正治二年(1200)
ISBN9784642027137
  • 本巻の政治情勢
  • 吾妻鏡 第十三 建久四年(1193年)
  • 吾妻鏡 第十四 建久五年(1194年)
  • 吾妻鏡 第十五 建久六年(1195年)
  • 吾妻鏡 第十六 正治元年 (1199年)
  • 吾妻鏡 第十七 正治二年 (1200年)
  • 付録
    • 干支表
    • 時刻表・方位
    • 大倉御所概念図・鎌倉時代の鎌倉

★ 感想

曽我兄弟の事件の後、東大寺大仏殿修繕のために頼朝は上洛する。しかしその後の数年間、吾妻鏡は歴史の記録を止めている。再開するのは頼朝が死んだ翌月から。通常は一月からきっちり始めるのに、この年は二月スタートだ。なんとも不自然である。

鎌倉幕府にとって、いや、北条氏にとって、源頼朝というシンボルが確立したからだろうか、頼家の代になると「シンボルは二ついらない。もう、じゃま」ということになっていったのか。この後、頼家は追放され、暗殺される訳だけど、この巻ですでに“悪者”のレッテルを貼られてしまっている。頼家がしょうもないやつだと言いたいだけの記事が一杯出てくる。人の妻に手を出しただの、僧侶を大した理由もなく迫害しただの、そんなのばかり。あと、鶴岡八幡宮への参拝も雨が降ると自分では出向かないことまでサラッと、でも何度も書かれている。政治もダメ、仏に対する信仰もダメと言われている訳だ。
「情報戦」はいつの時代にもあったと言うことなのでしょう。誰の視点で書かれた「歴史」なのかを意識することの重要性を再認識させられました。

そして、「鎌倉殿の13人」が確定したと思ったら、早速仲間割れ。梶原景時が他のメンバーによって弾劾され、追放。そして最後は例によって謀反の疑いによって誅殺されてしまう。昨日まで席を並べていたのに、頼朝蜂起の時からの仲間だったのに、路傍に首が晒されてしまう。いやぁ、なんとも血生臭い連中だ。
で、そんな最中にも頼家は比企の屋敷で蹴鞠や酒宴を楽しんでいると記している。蚊帳の外だということを強調しているのだろう。

そして極めつけが文末の、文覚上人による頼家糾弾の文章。唐突に出てくるので、どういうこと?と読んでいて戸惑ってしまった。
なぜここにこれが掲載されているのかも謎。なんか、この巻は謎だらけだ。「その心は?」と深読みする楽しみがあるとも言えるし、吾妻鏡は奥が深いと痛感した。

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