現代語訳吾妻鏡 10 御成敗式目

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★あらすじ

寛喜三年 1231年
3/19 飢饉で餓死者が出ているとのこと。北条泰時は伊豆・駿河の両国に出挙米を施すことを命ずる。
4/2 河越重員は、廃れてしまった武蔵国惣検校職の職掌である四ヶ条を執行したいと、北条泰時へ願い出る。
5/13 大犯三ヶ条の適用範囲、検非違所の役割、窃盗罪に対する罰則などの条々が決定される。
5/17 北条泰時が病気になる。また、最近の日照りや流行病に対応するため、鶴岡八幡宮に対し、大般若経転読と十日間の問答講実施が命じられる。
9/27 北条朝時宅に賊が押し入る。朝時自身は留守であった。報を聞いた北条泰時、北条時房らは政務を投げ出して朝時邸に急ぎ向かう。賊は既に捉えられたとのことで途中が御所に引き返す。これに対し平盛綱は「重職を任された者が状況もわからないで現場に急行するのは良くない。もっと慎重に」と諫言する。しかし泰時は「家族の大事は最も重要なことだ。家族が討たれようとしているのを黙ってみている方が良くない」と反論した。これを聞いた三浦義村は感涙し、平盛綱は頭を垂れる。さらに、朝時は子孫に至るまで泰時に仕えると申した。

寛喜四年 (貞永元年) 1232年
1/23 北条泰時が「去る12日に出掛けようとした時、道虚日だからいけないと言われた。しかし、京都では同日、朝覲行幸が行われたと聞いた。どういうことか?」と僧侶らに尋ねた。すると、太田康連が先例を多く挙げた。泰時は喜んだ。
道虚日:陰陽道による、外出を避けるべき日。毎月6,12,18,24,晦日
4/7 新補地頭に対し、七ヶ条の法が定められる。
5/14 北条泰時は御成敗式条(御成敗式目)制定に向け公に審議を始める。これは関東の諸人の訴訟を公平迅速に行うことが目的とした。
8/10 御成敗式目の編纂が終わる。これは藤原不比等が編纂した養老律令に匹敵するほど重要な法だ。
閏9/4 核のない彗星が現れる。以後、数日に渡って観測された。ただし、彗星と特定できず、陰陽師の間で議論が続く。多くの祈祷が為された。
閏9/18 藤原頼経は法勝寺九重塔の再建費用を九州の御家人たちに賦課した。(東国の御家人には命令できないのか? 将軍と西国御家人たちの関係は?)
12/5 故大江広元が管理していた文書や記録類が各所に散在してしまっていたので、北条泰時はこれらを集めて目録化するように命じる。

寛喜五年 (天福元年) 1233年
7/9 丹波国の百姓たちが、神人の先達と称する者の圧政に苦しんでいる、と鎌倉まで訴えに来た。北条泰時は直接、話を聞き、大いに憐れんだ。そして、六波羅に状況をよくよく調査せよと命じた。
10/19 「藤原定家が出家し、法名を明静とした」と鎌倉に伝えられた。

天福二年(文暦元年)1234年
3/5 北条泰時の孫で、後の四代執権 北条経時(弥四郎)が御所で元服する。加冠は将軍の藤原頼経、理髪は北条時房であった。
7/27 御台所(源頼家の娘、竹御所)が出産するも死産であった。また産後、御台所も亡くなられた。(これにより、源頼朝の直系は断絶した。)

文暦二年(嘉禎元年)1235年
6/29 五大堂の梵鐘の鋳造が銅不足によって失敗したため、銅銭三百貫文にさらに30貫文を追加して鋳造し直し、ようやく完成に至った。
閏6/28 起請文の内容が虚偽である場合が定められた。鼻血を出した場合、鳶や烏の糞がかかる場合などだ。(それらは神の怒りの表れと考えられた)
12/18 京都で疱瘡が流行っているとの伝えられていたが、数日前から病気であった藤原頼経も疱瘡の疑いがあると言われる。それを受け、月末まで各種祈祷が行われた。

嘉禎二年 1236年
1/1 北条時房によって垸飯が行われたが、藤原頼経は以前病気のため、お出ましにならなかった。
1/17 藤原頼経の病気は治ったものの、疱瘡の後遺症で股や膝に腫れ物が残った。
1/18 藤原頼経の後遺症にたいして、冥道供(みょうどうく)が行われた。
8/4 若宮大路の新造御所が完成し、藤原頼経が移る。数々の儀式が数日間にわたって行われた。

嘉禎三年 1237年
1/2 北条泰時が垸飯を差配するはずだったが、軽服のために孫の北条経時が行った。
8/15 藤原頼経が鶴岡八幡宮の放生会に参宮する際、「供のものがひ弱だから、自分の子息を付ける」と三浦義村が申し出てそのようにした。人びとは義村の傍若無人に驚いた。

★基本データ&目次

編者五味 文彦, 西田 友広, 本郷 和人
発行元吉川弘文館
発行年2011
副題御成敗式目
ISBN9784642027175
  • 本巻の政治情勢
  • 吾妻鏡 第二十八 寛喜三年 1231年
  • 吾妻鏡 第二十八 貞永元年 1232年
  • 吾妻鏡 第二十九 天福元年 1233年
  • 吾妻鏡 第二十九 文暦元年 1234年
  • 吾妻鏡 第二十九 嘉禎元年 1235年
  • 吾妻鏡 第三十 嘉禎元年 1235年
  • 吾妻鏡 第三十一 嘉禎二年 1236年
  • 吾妻鏡 第三十二 嘉禎三年 1237年
  • 付録

★ 感想

鎌倉では北条泰時が中心となり、京都では将軍藤原頼経の父である道家が権力を握り、前巻(現代語訳吾妻鏡 9 執権政治 | Bunjin’s Book Review)に引き続き、政治は安定し、法整備も進んでいく。そして、サブタイトルにある通り、1232年に「御成敗式目」が一応の完成を見る。御家人の誰かが滅ぶ(誅殺される)などという大きな争いも起きていない。一方で、各地で天候不順による飢饉は続いていて、鎌倉政権はその対応に追われていた。この巻にはそんな状況が描かれている。

徳政令は良しとして、飢饉に対しては雨乞いの儀式などをする方に力を入れている。現代の我々からすると、その労力・費用で灌漑をするなどした方が・・・ともどかしく思ってしまう。もちろん、当時の人びとにとっては本気で神仏の力を信じていた訳だから、“正しい”行為だったのですが。
まあ、起請文(内容証明付き公式文書、というところでしょうか)の中身が虚偽かどうかが、鳥が分を落としたかどうかで決めるところはさすがに「本当に信じていた?」と思っちゃいますけどね。

あと、四代将軍の藤原頼経に関しては、病気になっただの、方違えで誰それの家に行っただの、そんな話ばかりが目立つ。御成敗式目などで法整備が進んだこともあり、訴訟の裁断などに関わることはほとんどなかったのだろうか。子供の頃から将軍として奉られていたけど、権力は全くもっていなかったという自分の立場に気づいてしまった後が怖いな、と深読みしてしまう。

最後の方で、三浦義村が傲慢だという記事が出てきて、この後にまた争いが起きることをほのめかしているのが気になりました。こういう“匂わせ”が多いのも吾妻鏡の特徴で、どこで“伏線回収”されるのかというのも楽しみになりつつあります。まあ、史実として結末は知っている訳だから、どういう風に伏線を張るのか、という楽しみ方かな。

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